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日本遺産ものがたり―近世日本の教育遺産群―

日本遺産ものがたり―近世日本の教育遺産群―

第11話 東洋と西洋、学びの融合   

日本遺産に認定された「近世日本の教育遺産群―学ぶ心・礼節の本源―」の歴史的魅力を語る「日本遺産も
のがたり」。今回のキーワードは「近代教育」です

 明治5(1872)年、明治政府は「学制」を発布し、義務教育を含む、西洋の教育制度を導入した。これは古代以来、学問の根本であった儒学教育から、近代教育への切替えを図る、我が国の教育の一大変革であった。    すべての子どもに教育を義務づける─―現代では当たり前のことだが、江戸時代は教育を強制せず、本人の「学びたい」という自主性を教育の基本としていたから、切替えはそう簡単ではなかった。事実、各地で学制反対一揆が起き、近代教育は最初からつまずいてしまった。
 この状況を打開するため、政府は一計を案じた。新たな学校を建設し、外国人教師を招くのではなく、人々になじみのある近世の学舎や師匠を近代教育に組み入れてはどうか、と考えたのだ。そしてこの案はただちに実行に移された。ここに、江戸の学びと近代の学び、言い換えれば、東洋の学びと西洋の学びとの融合が図られたのである。
 小学校の教師は、寺子屋の師匠が担った。彼らの多くは藩校や私塾の出身者で、高水準の教育をマスターしていた。そのため、世界史や世界地理などの新たな知識をすぐに吸収し、生徒へ的確に教えることができた。大学の教授陣についても、最初はお雇い外国人が多かったが、次第に藩校出身者が増えていった。水戸藩出身の教育者としては、東京帝国大学教授となった栗田寛(ひろし)や内藤耻叟(ちそう)、女子高等教育の先覚者となった豊田芙雄(ふゆ)などが有名だ
。 また、江戸時代の学舎も近代学校の校舎に活用された。
 かつて「唯一無二の美しい学校」と言われた閑谷(しずたに)学校は明治以後に廃校となったが、学舎が失われることを憂慮した旧藩士たちが立ち上がり、閑谷中学校として再興された。近代学校として生まれ変わった閑谷学校は、江戸から昭和まで、実に約300年間にわたり存続し、現在、敷地内に建つ閑谷中学校の校舎は国の登録文化財となっている。
 一方、弘道館は水戸城内という一等地にあったため、明治以後は県庁舎として利用されたが、水戸の近代教育の発展と無関係ではなかった。市内唯一の高等小学校であった水戸市高等小学校は、当初、弘道館の建物の一部を学校の分教室としていたが、やがて弘道館敷地のうち、武館や医学館があった部分全域が小学校敷地として活用された。これが現在の三の丸小学校である。
 閑谷学校や弘道館のように、現存する近世の教育遺産の近くには近現代の学校があるケースが多い。こうした景観は、一見するとアンバランスに見えるかもしれないが、実は東洋と西洋の学びの融合という、教育変革の歴史の証あかしであり、我が国の近代教育の基礎が、江戸の学びにあったことを物語る、貴重な景観なのである。
水戸市 歴史文化財課 関口慶久              

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